2025年7月19日から7月21日まで山形県鶴岡市の丙申堂で開催された「海坂の芭蕉の小祭り」
7月20日に開催された「芭蕉逗留の地リレートーク」に出席しました。
今回は山寺芭蕉記念館の相原一士氏によるご講演「奥の細道 山寺の芭蕉」について、配布された資料や控えたメモを元に私なりにまとめてみたいと思います。
講演では芭蕉が山寺を訪れた背景や、あの名句「閑さや 岩にしみ入る 蝉の声」にまつわる考察、そして芭蕉が実際に宿泊した宿に関する興味深い話題まで、山寺訪問をめぐる多面的な考察が語られました。
『おくのほそ道』に記された山寺訪問は、もともと予定に含まれていなかった「寄り道」だったと考えられています。
随行者・曾良が記した「名勝備忘録」にも立石寺の記述はなく、計画外の訪問だったことが示唆されます。
相原氏の解説によると、尾花沢で逗留していた芭蕉は、弘誓山養泉寺(天台宗)の住職の勧めにより山寺へ向かったのではないかとのこと。鈴木清風に相談し、馬の手配も受けた可能性が高いと推測されます。
奥の細道で芭蕉が訪れた寺院には天台宗が多く、山寺(宝珠山立石寺)もその一つ。慈覚大師・円仁の開基と伝えられるこの地は、旅の霊的・精神的な支柱としても魅力的な訪問地であったのかもしれません。
この名句は、当初「山寺や 石にしみつく 蝉の声」として着想され、推敲の末、現在知られる形に至ったとされます。蝉の声の主については、かつて斎藤茂吉が「アブラゼミ」とした一方、他の文学者は「ニイニイゼミ」との説を提示。近年では「ニイニイゼミ」の可能性が高いとされています。
静寂と対比される蝉の声が「岩にしみ入る」と表現された芭蕉の感受性には、訪れた地の風土や信仰的背景も影響していると感じられました。
『おくのほそ道』には「麓の坊に宿かり置きて」とあり、曽良の日記には「宿預り坊」と記録されています。一方、複数の史料には「あつかり」という言葉も見られ、立石寺の手水鉢には「預里(あずかり)」の文字が残されているとのこと。
相原氏は、現在徳善坊の子孫やその周辺の聞き取りから、芭蕉が宿泊したのは徳善坊とされているが、「預り」と「徳善坊」はもともと別の坊であり、後に合併された可能性もあるのではないかと紹介しました。文献と口承、それぞれの情報が絡み合う芭蕉研究の奥深さが感じられます。
今回のご講演では、芭蕉が山寺に足を運ぶこととなった背景から、名句誕生の裏側、宿泊先をめぐる考証まで、多角的な視点から「山寺の芭蕉」に迫る内容が展開されました。旅の記録としての『奥の細道』の背後にある人間ドラマや、地域の人びととの関わりの深さに触れる貴重な機会となりました。
今後も芭蕉の足跡を追いながら、地域の歴史や文化を丁寧に見つめ直していきたいと感じさせられる講演でした。