今回は江東区芭蕉記念館さん主催で月1回開催されている「まちあるき」に参加しました。コースは<芭蕉ゆかりのまちあるき「芭蕉が偲んだまちあるき」北コース>です。
寛文12年(1672)29歳の時に江戸へ出てきた芭蕉。最初は現在の日本橋・室町付近に住んだそうです。界隈の商人に助らえたそうですが、芭蕉を経済的に支援した杉山杉風(さんぷう)は芭蕉十哲の一人。延宝8年(1680)37歳の時に日本橋から深川に移り住みました。
「芭蕉が偲んだまちあるき」北コースは、都営新宿線の森下駅を出発して五間掘跡、長慶寺、墨田区の要津寺、新大橋、隅田川テラス、芭蕉庵史跡展望庭園、芭蕉稲荷神社、旧新大橋跡をめぐり、江東区芭蕉記念館がゴール。
生前の芭蕉を見ている森川許六(きょりく)の似顔絵が一番似ているかも知れないとのこと。
模写の「模写」は想像の創造と言えばいいのか、それぞれ何とも言えない味わいがあります。私は与謝蕪村が描いた芭蕉坐像図が印象的でした。
近くに河合曾良が居を構えたと言われる「五間掘」は、江戸時代前期に開削された水路。現在は埋め立てれられて「五間掘公園」になっています。
その形状に水路の面影を見ることができました。
弟子たちが芭蕉の死後に芭蕉の歯・句短冊を埋めて建てた芭蕉翁句塚がある「長慶寺」「芭蕉翁桃青居士」「寶晋斎其角墓」「玄峰嵐雪居士」3つの碑があります。関東大震災や東京大空襲で破損したそうです。芭蕉が亡くなった10月12日は時雨忌と呼ばれています。
墨田区千歳にある要津寺。芭蕉を顕彰して七十回忌に「芭蕉翁俤塚」、八十回忌に「ふる池やの句碑」、百回忌に「芭蕉翁百回忌発句塚碑」が建てられました。この他に芭蕉十哲のひとり・服部嵐雪の一門(雪中庵)の墓があり、嵐雪と雪中庵二世・桜井吏登(りょうた)、三世・大島寥太(りとう)、それに雪中庵供養碑になっています。
芭蕉を釈迦に見立てて、最期に寝込んでいる芭蕉の周りに弟子や牛、馬など動物が集まっている様子を描いた「芭蕉涅槃図」芭蕉の遺言通り、10月14日には滋賀県大津市にある義仲寺に埋葬されました。
竪川と小名木川とを南北につないだ六間堀。天和二年(1683)の大火の際、芭蕉は六間掘に飛び込んで難を逃れたそうです。「芭蕉翁繪詞傳」に描かれた芭蕉の姿が印象的でした。火の粉を防ぐ為、頭に川草を被って助かったそうです。
ガイドさんが知り合いのマンション関係者に許可をいただいて見学させていただくことができました。
碑には
・この一帯は江戸時代をとおして幕府の艦船を格納した船蔵(御船蔵)のあったこと
・幕府最大の軍艦安宅丸がおかれていたこと
・明治に入り、解体され(埋められた?)安宅丸を称えて深川安宅町となったこと
などが記されていました。
芭蕉庵で詠んだ9句のレリーフが設置された「隅田川テラス」それぞれの句について解説いただきながら歩きます。
隅田川の河口付近で小名木川が流れ込み箱崎川が分岐する場所を「三また」と呼んでいたそうで、中州は月の名所だったとのこと。芭蕉はここから見える景色を楽しみ、俳句を詠んだのでしょうか。
ちなみにこの像、ある時間になると動くんだそうで、ビックリしました。
石の蛙が出土したことから、ここに神社が建てられたとのこと。
その時見つかった「石の蛙」は江東区芭蕉記念館で見ることができます。
深川芭蕉通りが隅田川に突き当たる付近に、元禄六年から明治四十五年まで旧新大橋がかけられていたそうです。
月1回開催で開催されている「芭蕉ゆかりのまちあるき」次回は3月16日(土)に「芭蕉が暮らしたまちあるき」(南コース)が開催されます。参加費はひとり500円。申込は江東区芭蕉記念館さんまで。