2024年11月13日(水)清川まちづくりセンターに鶴岡市史編さん委員でワッパ騒動義民顕彰会 事務局長の升川繁敏さんをお迎えして「ざ・歴学」を開催しました。今回の講座のタイトルは「150周年を迎えたワッパ騒動と狩川通」です。
ここからは講座内容や升川さんから当日配布された資料などをもとにて、ワッパ騒動について私なりにまとめてみました。
近代的な農民運動や自由民権運動の出発点となった「ワッパ騒動」は、1873年から1880年まで7年間の闘いで、
1万数千人もの農民が参加した。
百姓一揆から自由民権運動へと発展して、酒田県から明治政府への訴願運動や裁判闘争に展開する。
ワッパ騒動の名称は、ワッパにいっぱいの金が返ってくると言われたことから付いたとされる。
(1)三方領地替えに際して、領民が嘆願や祈願・献金などにより反対運動を繰り広げた結果、幕府に撤回させたこと。
(2)戊辰戦争の時は農兵や郷夫となって戦に参加したり、献金をしている。
(3)明治政府から酒井家に会津若松、磐城平への転封を命じられたが、反対運動によって70万両と引替に庄内に復帰した。
この際にも領民たちは祈願・献金した。
(1)~(3)→農民たちは多額の献金や普請などを通して庄内藩を支えていた。
(4)1872(明治5)年から酒田県は士族たちが「刀を鍬に替えて」松ヶ岡開墾事業を始めるが、
実際は多数の庄内藩領の農民たちも普請によって駆り出されていた。
更に(1871年4月戸籍法が制定されたにも関わらず)藩士や藩に帰属意識が低い新徴組・新整組も強制的に開墾作業に動員された。また経費には公費が使われていた。
(5)江戸時代と同様の年貢の取り立てが行われ、石代納(こくだいのう)が全面許可されていたのにも関わらず、酒田県では米代納が続けられた。
第一次酒田県(1869年から1871年まで)
酒田に明治政府直轄支配の為の民政局が置かれる一方、酒井氏は1869(明治2)年7月に川南(鶴岡)に復帰。
庄内藩から大泉藩→大泉県になるも、県令が中央から派遣されることなく、旧藩士の支配が続く。
1871(明治4)年11月 旧大泉県・旧松嶺県・酒田出張所管轄地を合わせた領地→酒田県が成立。
大参事・松平親懐(旧家老)や権大参事・菅実秀が実権を持つ。
→酒田県の幹部の多くが旧庄内藩の藩士だった。
1874(明治7)年 酒田県の県令に三島通庸
1875(明治8)年 酒田県から鶴岡県へ
1876(明治9)年 鶴岡県は山形県や置賜県と合併して新・山形県となる。初代県令は三島通庸。
【状況】
・1872(明治5)年 明治政府は金納を認めていたが、酒田県は米納させていた。
→酒田県は米価が高騰していたので、巨額の差額を得ていた
・庄内藩時代の高率の雑税と村入用の取り立てが続いていた
1874(明治7)年片貝村で酒造業を営む上級農民だった鈴木弥右衛門が、戸長の伊藤義三郎に石代納嘆願書を提出するが、酒田県はこれを認めなった。見せしめとして鈴木弥右衛門宅を取り壊して、石代納を願った農民たちを逮捕した。この為、農民たちが異議申し立てを行ったことが「ワッパ騒動」の始まりである。
内務省から内務小丞・松平正直が派遣される
・石代納の全面許可
・二年間の過納分は返還しない
・雑税村費は役人と話し合うように裁定
農民が株主となって、米を売却納税する石代会社の設立を目指すも実現せず。
1974(明治7)年12月 三島通庸が酒田県令に着任。
1975(明治8)年 1月 森藤右衛門は三島通庸に建言を提出するも拒否。
10月 元老院の沼間守一書記官が鶴岡に派遣されて取り調べを行う。
1976(明治9)年 司法省の児島惟懐を派遣して臨時法廷を開廷。
県官十数名の処分以外は帰郷後(西南戦争終了後の1878(明治11)年)に裁決する。
1978(明治11)年 1月農民側の一部勝訴・一部敗訴
立川町史 発行:立川町
日本の歴史を問いかける―山形県<庄内>からの挑戦 地方史研究協議会編 発行:文学通信
ワッパ騒動義民顕彰会誌 第12号 発行:ワッパ騒動義民顕彰会