慶応4(1868)年から明治2(1869)年まで官軍(新政府軍)と旧幕府軍や佐幕派諸勢力との間で行われた戊辰戦争。この際に庄内藩と官軍の間で激戦地となった場所を訪ねて、その足跡を見学したり現地の方々からお話を伺ったりして戊辰戦争の様子を体感します。今回は鶴岡市の鼠ヶ関や関川を訪ねました。
鼠ヶ関にある曹洞宗のお寺・瑞芳院さんには砲弾と鎧櫃が残っています。
住所:〒999-7126 山形県鶴岡市鼠ヶ関甲365
アクセス:羽越本線鼠ヶ関駅から徒歩約15分
ご住職の講話によると、1868年(慶応4年)戊辰戦争の際、官軍が蒸気船から撃った砲弾が欅の木にめり込んだ為、大きな穴が開いていたとのこと。残念ながらこの木は残っていません。
講話の後は、ご住職の許可をいただいて砲弾を持ってみました。ズッシリと重く、この砲弾が沖合からこのお寺まで飛んできたと思うと、その威力に驚くばかり。
戊辰戦争の際、村上藩は官軍帰順派と抗戦派に分かれて対立しました。
村上藩家老の鳥居三十郎は、藩士約200人と共に庄内藩と一緒になって官軍と戦うも、庄内藩が降伏後に切腹させれました。この鳥居三十郎の鎧櫃がここにあります。
ご住職のススメで本堂裏の高台へ。羽越本線や国道7号線、弁天島など鼠ヶ関を一望することができました。この眼下で戦が繰り広げられたとはにわかに信じがたい、穏やか風景がそこにはありました。
バスに乗って新潟県へ。車窓から十三仏を確認した後、バスを降りて鼠喰岩を見ました。
庄内藩はこの鼠喰岩の胸壁から官軍に応戦したと伝わっています。官軍は鼠ヶ関を攻略することができず、関川から進軍することにしました。羽越本線のトンネル名が鼠喰となっているのを見つけました。海岸から鼠ヶ関や弁天島を望むことができます。
昼食後は小国川沿いを進み、摩耶山の麓にある関川へ。
戊辰の役古戦場碑の前で地元の方から戊辰戦争の際の関川の様子をお話いただきました。
中継に集結した官軍の兵およそ800人は雷(いかづち)峠と村上藩領との国境の山頂に分かれて急襲、関川の庄内藩を退けて占領しました。何度も奪還を試みるも果たすことはできないまま、庄内藩は降伏することになりました。
戦いの後、村の人々が関川に戻ると、家々が火事場泥棒にあっていて農具や着物など何も残っていなかったそうです。その為、かなり苦しい生活を強いられることになりました。ご祖先がこの苦難を乗り越えたからこそ今の関川がある、と誇りに思っておられる様子が言葉の端々から感じられました。