主要街道の面影を今に伝える一里塚跡。徳川家康の命により整備された一里塚は、江戸時代初期の庄内地方に78箇所ありました。その内のひとつが酒田市松山地域に残る一里塚です。
街道の一里(三十六町)ごとに道の両側に1個づつ盛土し、更に松や榎を植えて里程の標としました。この一里塚は、亀ヶ崎城代・志村伊豆守光安(あきやす)が築造と言われています。
正保庄内絵図(鶴岡市指定文化財・致道博物館所蔵)には、この一里塚が記されています。
また明暦年間の絵図(写)によると、竹田~松山の間、山寺~臼ヶ沢の間、地見興屋~成沢の間に一里塚が書き込まれていますが、現存するのはこの一里塚のみです。
志村伊豆守は山寺から新興屋へ新道を作り、ここから最上地方へ行き来する船を四艘配備したことが「庄内要覧」に記されています。新興屋から松山、竹田、飛鳥、小真木、四ツ興屋を経て酒田に至る道路は「最上街道」と呼ばれました。
一里塚から松山総合支所へ向かって進むと、左手に新町口番所跡があります。ここから先が郭外の城下にあたり、最上街道は新町口から荒町口まで城下を貫いていました。その為、番所や冠木門(木戸)柵が設けれて、ここを出入りする人々を監視していたそうです。山寺方面へ向かう県道362号・一方通行の道路が合流する付近には、荒町口番所跡の案内標柱があります。
山寺~飛鳥の距離は一里二三丁、飛鳥~酒田が二里二五丁だったようです。(一里=約3.9キロメートル、1丁=約109メートル)
松山町史・上巻