城下町・鶴岡と最上川舟運の水駅・清川を結ぶ清川街道は、人や荷物が往来し、庄内藩酒井家のお殿様一行が参勤交代の際に通る道でもありました。沿道には赤川・藤島川・京田川があり、赤川を渡る際には舟を連ねた「舟橋」の上をお殿様は渡ったそうです。
今回は川の渡し船が発着した「渡場」があったと思われる場所のひとつ、京田川左岸の「京田橋」集落を訪ねました。
清川から車で狩川を経由して国道345号バイパスを鶴岡方面へ向かい、京田橋を渡ってすぐ右折しました。
鶴岡市指定文化財【正保庄内絵図(庄内三郡絵図)】[致道博物館蔵]によると、この付近に一里塚と京田川渡場があったことが確認できます。現在は公園になっていて、そこに橋の欄干と石碑、東屋がありました。
昭和13年に木造の橋からコンクリート橋になった京田橋。
昭和55年に集落の南側を通る国道345号線に新しい橋が完成した為、旧橋の欄干がモニュメントとして残されたようです。
かってこの場所に大きな米倉庫や船着き場があったことが記されています。
旧十六合村や東栄村などからも馬車や馬そりで米が集められ、京田川から舟で酒田に集められていたとのこと、様々な商店が建ち並んでいたこと等当時の賑わいが伝わってきました。
京田川の堤防にあがる階段のそばに、船着場跡(京田川渡場)があったことを示す碑が建てられています。
京田橋集落記念碑によると、京田川の改修工事により堤防が設けられたとのこと。江戸時代はこの場所から川の流れを見ることができたのでしょうか。
京田川は月山を源に鶴岡市羽黒町を北上、庄内町添津付近から庄内平野に入って、千本杉を経て家根合(かねあい)付近で藤島川に合流します。
対岸に見える住宅地は庄内町京島地区です。
明治9年(1876年)に上七曲村と下七曲村、四ッ興屋村が合併して誕生したのが三和村。これらの村名は「二郡縮図」などで確認できました。京田川集落は、現在「三和4区」と呼ばれているそうです。
庄内交通さんのバス停は、旧橋が架けられた付近に「京田橋」の名前で建っています。(冬季期間はバイパス沿いに臨時停留所が設けられ、こちらには停車しません。)
立川町史
青山崇 著 藤島地名風土記 鶴岡書店