山形県庄内町にある「亀ノ尾の里資料館」で、2024年12月14日(土)から2025年2月16日(日)まで開催されている第108回企画展「清河八郎の尊皇攘夷 ―赤心報国回天倡始―」を見学しました。

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清河八郎とは

清河八郎は天保元年(1830)10月10日、出羽庄内清川村に生まれました。幼名は元治で、父・齋藤治兵衛の長男でした。
18歳で江戸に出て、東條一堂に古学を、安積良斎に朱子学を学び、剣術では千葉周作のもとで北辰一刀流を修め、免許皆伝の域に達しました。25歳の時に神田三河町に「清河塾」を開き、文武両道を備えた人材を育成しました。
その後、山岡鉄舟らと「虎尾の会」を結成し、尊王攘夷運動に積極的に取り組みます。彼の提案によって、将軍上洛の際に護衛を目的とした「浪士組」が結成されましたが、清河八郎は京都に到着した際に「我々の目的は将軍の警護ではなく、尊王攘夷である」と宣言します。
この主張に反発した近藤勇や土方歳三らは、浪士組を離脱し、新選組を結成しました。一方、江戸に戻った浪士組は庄内藩預かりとなり、「新徴組」として江戸の治安維持にあたることになります。
幕府から危険視された清河八郎は、文久3年(1863)4月13日、麻布一ノ橋において暗殺されました。享年34歳でした。

私が注目した展示について

亀ノ尾の里資料館

清河八郎筆 戦陣懐中旗「赤心報国回天倡始」

展示の中で特に印象に残ったのは、清河八郎が記した戦陣懐中旗に書かれた「赤心報国回天倡始(せきしんほうこく かいてんしょうし)」という言葉です。これは「まごころをもって国のために尽くし、世の中を変革するために先頭に立つ」という意味を持ちます。この言葉こそが、清河八郎の生涯を象徴していると感じました。

「尊攘大義」に見る清河八郎の考え

清河八郎はしばしば討幕派と見なされることがありますが、彼が父・齋藤治兵衛宛に送った書簡をまとめた「尊攘大義」には、徳川幕府が天皇の命を奉じて攘夷を行うべきだと記されています。
この文書は、学習院に提出された建白書の写しであり、そこには幕府を倒す意図は明確に記されていません。清河八郎の考えは「幕府が天皇の命に従って攘夷を実行すべきだ」というものであり、単純に討幕を目指していたわけではないことがわかります。

まとめ

本企画展では、清河八郎の人物像とその思想に迫ることができました。彼は単なる過激な攘夷論者ではなく、日本の未来を真剣に考えた先見の明を持つ人物だったことが改めて実感されました。展示資料の一つひとつから、彼の熱い志と行動力が伝わってきました。尊皇攘夷の時代に生き、激動の幕末を駆け抜けた清河八郎の生涯を知る貴重な機会となりました。

基本情報

庄内町 亀ノ尾の里資料館
住所: 山形県東田川郡庄内町南野字十八軒21-1
会期: 2024年12月14日(土)~2025年2月16日(日)